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和歌山 刺田比古神社 通称『岡の宮』

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刺田比古神社 岡の宮とは

由緒

刺田比古(さすたひこ)神社は、和歌山城の守護神、8代将軍吉宗公拾い親の神社で、平安時代の書物『延喜式』にも掲載されている古社です。
岡という土地(現在の和歌山市広瀬、大新、番丁、吹上、芦原、新南地区)の守り神であることから、「岡の宮」の名で知られています

御祭神について

御祭神は道臣命(みちおみのみとこ)、大伴佐氐比古命(おおとものさでひこのみこと)をお祀りしています。道臣命は初代の天皇である神武天皇につかえた将軍です。佐氐比古命は朝鮮半島にあった百済国を救済したとされます。

神社の成立

大伴氏は代々岡の里を領地としていました。子孫の大伴武持が大伴氏の発祥であるこの地に、祖先神の道臣命、佐氐比古命を祭祀したことが神社の起源とされます。土地の人はこの地を切り開いた神として、「国主ノ神」「大国主神」という名称で尊んだといいます。

城の守護と荒廃、再興

大伴武持から数えて28代目にあたる岡本信濃守武秀は岡山(現和歌山市岡山丁)に城を築きます。武秀は神社を城の守り神として厚く敬いました。以後代々の城主の崇敬も厚く、神田を寄付され神社は隆盛を極めました。しかし南北朝時代に入ると、度重なる戦乱に遭い、古文書や宝物を悉く失うなど荒れ果ててしまいました。
地元の人々はそれを嘆き、嘉吉年間(1441~1444年)に再興されました。

和歌山城の鎮護

天正13年(1585年)、豊臣秀吉が和歌山城を築くさい、当神社を本城鎮護の神として尊びました。秀吉の弟秀長は、城代桑山修理亮重晴に社殿の修造を命じました。

徳川幕府が誕生し、桑山氏にかわって浅野幸長が藩主となりました。藩主が変わると別の神様を尊ぶ場合が多いのですが、浅野氏も当神社を本城鎮護の神として変わることなく崇敬しました。

その後紀州御三家として徳川南龍(頼宣)公が城主となると、城の守護神であるこの神社を大切にし、社殿を大幅に修築し宝物や領地を寄進しました。二代城主清渓(光貞)公以後は産土神として崇敬し、さらに大小社殿を造営しました。

吉宗公の拾い親

特に八代将軍有徳(吉宗)公は当神社を大切にしました。吉宗公が生まれる際、神主の岡本周防守長諄が仮親となったことから、「拾い親」の神社として特別に崇敬をうけました。

吉宗公が将軍になった際は、開運出世の神として名草郡田尻村(現和歌山市田尻)に20石の朱印地を寄付したほか、黄金装飾の太刀光世(国宝)、神馬1頭を献上しました。また国家安泰の祈願社として年に1万度の祓を命ぜられました。神主岡本長刻からは3年に1度江戸で将軍に拝謁することが許されました。以後幕末まで宮司代替のさいは江戸で拝謁しています。

明治以後と戦災

明治6年4月に和歌山県の守り神として県社に指定されました。大正13年には吉宗公献上の太刀が国宝指定を受けるなど、古社としての威容を誇りましたが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で戦災に遭い、御神体をのこして社殿、宝物、古記録ほとんどを焼失しました。その後氏子等の敬神によって現在の復興がなされました。

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