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徳川吉宗と刺田比古神社の関わり

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捨て子将軍?

「暴れん坊将軍」の愛称で知られる8代将軍の徳川吉宗は、産まれたさいに一度捨て子にされ、刺田比古神社の宮司が拾ったと言われています。

県庁前交差点にある吉宗像(和歌山市)

「捨て子」と聞くと、現在で考えれば幼児虐待やネグレクトといったものを連想してしまいますが、これは神事として行ういわば「イベント」のようなものです。

 

捨て子と拾い親

昔から、一度捨てられた子は丈夫に育つという信仰がありました。有名な例を挙げると、豊臣秀吉の子供鶴松と秀頼です。鶴松の幼名は「捨」、秀頼は「拾」と名付けられています。これは一度捨てることで厄を落とし、神様から与えられた子とする信仰からくるとも言われています。この時に拾う人は誰でもいいというのではなく、長寿の人や出世した人など、健康や功績にあやかれるよう特別な人が「拾い親」として選ばれたそうです。今でも力士の方に赤ちゃんを抱っこしてもらう映像などをみかけますが、あれも力士の方の健康にあやかろうとする名残なのかもしれません。

 

厄年生まれの捨て子と拾い親

特に捨て子とされたのは厄年生まれの赤ちゃんです。親御さんが厄年のときに生まれてきた赤ちゃんは、親の厄を全て身にまとって生まれるのだと考えられていました。そのため縁起が悪いということで、その厄を払うために捨て子にされたのです。

吉宗生誕地の碑

徳川吉宗は貞享元年(1684年)に、紀州藩の2代藩主徳川光貞の4男として生まれました。このとき、お母さんの「おゆりの方」が厄年だったと考えられています。そのため吉宗は誕生と同時に、和歌山城の南西隅にある扇之芝(和歌山城の追廻門付近)に捨てられました。

県庁前バス停ちかくにある「扇之芝」の碑

そのさい和歌山城の守り神である刺田比古神社の神主が拾い親となりました。神主が赤ちゃんを拾うことで厄を払い、神からの贈り物としたのです。

 

厄除けの「箕」(みの)

刺田比古神社の神主は、箕(みの)と箒(ほうき)で吉宗公を拾いあげたといいます。

箕というのは竹で編んだ農具のことです。お米などの穀物を集めて、脱穀(ホコリや殻を取ること)に使うものです。汚れを取り、種だけを残すことから、厄を祓い、幸運を拾うものと考えられていました。

 

捨て子が異例の出世

この時代、出世は生まれた順番や母親の身分で決まりました。お母さんの「おゆりの方」は、お湯殿番という低い身分でした。その上吉宗は4男。普通であれば養子に出されるか、家来して一生結婚もできないと考えられる立場にありました。ところが吉宗は紀州藩の殿様になり、その上将軍にもなりました。異例の出世を果たしたことから、刺田比古神社を開運出世の神社として大切にしたそうです。

 

太刀「光世」と神馬の献上

吉宗は将軍になったことを感謝し、田尻村(現和歌山市田尻)にある土地を刺田比古神社に寄附しています。また享保6年(1721年)には、黄金で装飾された太刀「光世」と神馬を献上しています。

刺田比古神社にある神馬像。吉宗が奉納した馬をかたどっています。

また刺田比古神社の神主は、3年に1度江戸城で直接将軍との面会が許されました。しかも吉宗以降の将軍でもこの面会は続けられ、幕末に刺田比古神社の神主が将軍に面会している記録が残っているそうです。すごい優遇の仕方ですね。

 

今でもある拾い親の神事

吉宗が捨て子から将軍にまで上り詰めたことから、刺田比古神社は吉宗公拾い親の神社として広く知られるようになりました。特に厄年生まれの赤ちゃんを拾ってほしいというお願いは、今でもあるそうです。遠方からでも退院直後に来られる方もあるそうです。

拾い親神事の様子

吉宗さんと同じように、実際に箕で赤ちゃんを拾っています。

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