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- SASUTAHIKO SHRINE -

古記録

資料詳細

古文書

刺田比古社勘文
紀州名草郡刺田比古神社者所被載延喜式也雖然星霜推遷治亂相變而降迹之地亦無知者同郷之内有稱國津大明神之神社屬者加修理之次於末社之内陣得一箇箱之蓋怪而視之有文字古代之質塵累積而不鮮拂之拭之則書曰紀州名草郡岡村刺田比古神物之箱也字々炳如又自往古有岡神社之里箱者蓋古老之所口傅也然則此國津大明神者爲刺田比古神社也果而符合也且夫神也依人之崇增威力人也依神之徳添運命若能體其心則神人全無二致者乎當今上淸下和國家扇淳風人民仰神徳以故國中之名神小社續絶興廢而無不尊重焉於是以當社之事告干予予喜其古風之傅片言寸器聊述其趣云爾元禄己卯仲春吉曜日神祇管領 卜部朝臣兼敬

社領寄進状
一 正徳二年
紀州名草郡雜賀荘刺田比古神社領事當社者式内所載而專爲府城鎮護ノ社也因茲以名草郡岡村之内拾石ノ地永寄附ノ宜収納者也仍如件
正徳弐年五月 日  吉宗 判

一 享保十四年
刺田比古社領紀州國名草郡田尻村ノ内貳百石事今度寄附ノ 全収納永不可有相違者可抽國家安泰ノ悃祈ノ状如件
享保十四年九月十八日  御朱印
神主

殺生禁状
一 享保六年 
名草郡岡刺田比古神社
境内 東西 南方 三拾一間 
北方 三拾三間半
南北 東方 拾七間半 
西方 拾九間
右之限界停止殺生不可有違犯者也仍
仰如件
享保六辛丑年二月 日   三浦遠江守 判
水野大炊郎 判

一 享保八年 
名草郡岡刺田比古神社南方添地
境内
東表限 南北 十四間四尺
西表限 南北 十四間一尺
南表限 東西 三十間
北表限 東西 十間一尺五寸
右添地限界停止殺生不可有違犯者也
依 仰如件
享保八癸卯年五月 日   三浦遠江守 判
水野大炊郎 判

棟札

当神社に伝わる棟札。

天正十七年の棟札(桑山修理太夫)
紀伊國海郡雜賀荘宇治郷岡村当社國津明神御棟札也
大檀那生國尾劦海東郡桑山修理太夫当國郡職之砌不思議ノ内檀仍当社明神上省成就棟札其砌取持足立好修 仍□ 神主大エ門大工粉川住人
速水八エ門両人    藤原家教奉者省是所也
時天正十七年己丑卯月十四日 願主敬白


延寶六年の棟札
當社明神御棟上札
紀州名草郡雜賀庄岡
國津神社岡廣瀬領産土神斯城之地主且鎮守也
國君源二品嘗崇敬之臨時拝矣今
國君正二品誕于斯城嗣君亦誕於國領
吹上二品自寛永至寛文再興規闢社境建正殿末社拝殿瑞籬内外鳥居神厨齋館無不備且移祠官宅于社傍仝朝夕供奉灑掃莫懈也 今國君崇奉不異先代*年 命有司修繕重葺正殿末社一宇拝殿鳥居等
延寶六年戊牛九月吉日
奉 行 喜多村大之丞源正丘
四宮太郎左エ門尉藤原直道
副奉行 飯田勘右エ門尉 平則明
匠 頭 中村新平 平久幸
神 主 岡本宮内 藤原長俊
*は「玄玄」の字。

元禄十二年の棟札
紀州名草郡雜賀庄岡
刺田比古神社正殿末社拝殿瑞籬鳥居神厨齋館燈舎等 丙子歳四月
當社舊称國津大明神不詳其本名丙子修繕之次□神號始見矣事由詳于卜部兼敬郷勘文右神號之事咨訪考覈至是年而因*今乃椙棟榜者也
元禄十二年己卯九月吉日
奉 行 丹羽弥四郎   源了隆
柴田才右エ門  藤原幸雄
副奉行 山本藤四郎   藤原正堅
小奉行 中村右エ門   平忠久
神 主 岡本宮内    藤原長俊
□は不明。*は「玄玄」の字。「丙子」は元禄九年か。

享保五年の棟札
紀州名草郡雜賀庄岡
刺田比古神社正殿末社拝殿瑞籬鳥居神尉(ママ)
齋館燈舎等國主命修繕之
奉 行 中村太郎兵衛   藤原吉明
堀内庄蔵     橘 正村
享保五年庚子十一月吉日
副奉行 山本四郎左エ門  源 重政
小奉行 中村與右エ門   平 久武
神 主 従五位下岡本周防守藤原朝臣長刻

紀伊国名所図会

 紀伊国名所図会

『紀伊国名所図会』は文化8年(1811)に出版された書物。
紀伊国の当時の名勝地を記した案内で、各地の名所図会のなかでも代表的なものとして知られている。
刺田比古神社は名所の冒頭に紹介されており、当時の隆盛をしのばせる。境内末社の位置は現在と異なる。
当神社横の松生院は別当寺。寛永3年(1626)に初代紀州藩主徳川頼宣(南龍)公が、岡の宮神主を別当職に兼帯して、松生院に居住させたという。寛文3年(1673)には別当職を解かれ、神仏習合から唯一神社となったが、神社傍に新たに神職住居を与えられた。松生院の境内にある鳥居が別当寺の名残をうかがわせる。

 紀伊国名所図会

南紀徳川史

 南紀徳川史

刺田比古神社誌

 刺田比古神社誌

大正5年3月 刺田比古神社社務所刊
大正発行の『和歌山県史』に一部引用されている。

古事記

古事記

国宝 真福寺本古事記(複製版)

万葉集

遠つ人松浦佐用比賣夫恋に領巾振りしより負へる山の名

山の名と言ひ継げとかも佐用比賣がこの山の上に領巾振りけむ

萬代に語り継げとしこの嶽に領巾振りけらし松浦佐用比賣

海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣

行く船を振り留めかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用比賣
(万葉集 巻五より)

『肥前風土記』や『万葉集』には、狭手彦命の悲恋が伝えられている。狭手彦命は高麗出兵の前にとどまった松浦郡鏡の渡(現在の唐津市鏡)で、篠原村の美女オトヒメ(『万葉集』では松浦サヨヒメ)と結婚する。高麗出兵のための別れにさいし、狭手彦命は餞別として鏡をお贈りになる。しかしオトヒメは悲しみに耐えられず、岬の先で狭手彦命の船にむかって手を振り続けた。このときに餞別の鏡が落ちたという。このことから、その岬を袖振の峰、鏡の落ちた地名を鏡と呼ぶようになったという。

大日本史

巻一 神武天皇
 山路險絶、不知所嚮、 天皇夢天照大神誨曰、今遣頭八咫烏住、宜以爲郷導、會頭八咫烏至、天皇大喜、令道臣命師大来目、從頭八咫烏而啓行、遂得達于菟田下縣、八月二日乙未、召菟田魁師兄猾、弟猾、兄猾不至、乃遣道臣命誅之、弟猾大設牛酒、犒王師、天皇班酒肉於軍、乃爲歌、是謂來目歌、天皇親率輕兵巡吉野、土人井光等來屬、九月五日戊辰、天皇登菟田高倉山、瞻望域中、八十梟帥軍國見岳上、置女軍於女坂、男軍於男坂、熾炭於墨坂、又兄磯城兵布滿磐余邑、皆己據守要害、道路絶塞、天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有神誨、時會弟猾上言、其言與夢協、天皇大喜、命椎根津彦、弟猾、取天香山土、即造八十平瓮天抉嚴瓮、祭神祇於丹生川上、祝曰、吾當用八十平瓮無水造飴、飴成則不假鋒刄、坐平天下、飴果成、又祝曰吾當枕嚴瓮於丹生川、若群魚醉而浮、則吾能定國、及沈瓮、魚皆浮出、天皇大喜、乃枝丹生川上眞坂樹、以祭諸神、祭神用嚴瓮、自此始、又親顯齋于高皇産霊尊、命道臣命爲齋主、授嚴媛號、十月癸巳朔、天皇嘗嚴瓮之種、勒兵而出、遂破八十梟帥於國見岳斬之、迺命道臣命、誘其餘薫殲之、天皇曰、戰勝而無驕、良將之行也、今賊魁既滅、(略)
元年辛酉、春正月庚辰朔、即天皇位於橿原宮、時年五十二、年據水鏡、暦代皇紀、及本書崩年一百二十七文、號曰神日本磐余彦火火出見天皇、立正妃爲皇后、建神籬祭八神、鎮護國家、天冨命率諸齋部、捧天璽鏡劔、奉安正殿、天種子命奏天神壽詞、可美眞手命内物部、執矛楯、嚴儀衛、道臣命率來目部、護衛宮門、群臣朝賀、命天種子命、天富命、共掌祭祀、建神籬以下、舊事紀、古語拾遺、○舊事紀、年中行事並曰、十一月十五日庚寅、可美眞手命爲天皇皇后天璽瑞寶、以鎭御魂、祈壽祚鎭魂祭始于此二年壬戌、春二月二日乙巳、定功行賞、○按舊事紀、是日可美眞手命、天日方奇日方命、爲申食國政大夫、本書所不載、頗可疑、姑附備考、下傚此賜道臣命宅地、今居築坂邑、

巻七 欽明天皇              
二十三年
八月、遣大將軍大伴狹手彦、率兵數萬伐高麗、大破之、獲婦女寶貨而歸、呉人智*齋儒釋方書明堂圖等百六十四巻、佛像樂器、相随倶来、云云
『徳川家蔵版 大日本史』[昭和三年七月十一日、義公生誕三百年記念會]
*は「耳」へんに「忽」

巻二六三 神祇二〇(神社一五)
刺田比古神社、
○古事記田作國、國田字形相類、必有一誤、未知孰是、社今在和歌山南岡山下、稱岡明神、又國主明神、蓋祀刺國大神、大神女刺國若比賣嫁天葺根命、生大已貴命、大已貴爲兄弟所虐也、若比賣大已貴憂之、使其往依大屋彦命、避難木國、蓋以外家亦在本國也、古事記
『大日本史 九 志一』[昭和四年四月二十日、大日本雄辯会]


古記録

資料詳細

古文書

刺田比古社勘文
紀州名草郡刺田比古神社者所被載延喜式也雖然星霜推遷治亂相變而降迹之地亦無知者同郷之内有稱國津大明神之神社屬者加修理之次於末社之内陣得一箇箱之蓋怪而視之有文字古代之質塵累積而不鮮拂之拭之則書曰紀州名草郡岡村刺田比古神物之箱也字々炳如又自往古有岡神社之里箱者蓋古老之所口傅也然則此國津大明神者爲刺田比古神社也果而符合也且夫神也依人之崇增威力人也依神之徳添運命若能體其心則神人全無二致者乎當今上淸下和國家扇淳風人民仰神徳以故國中之名神小社續絶興廢而無不尊重焉於是以當社之事告干予予喜其古風之傅片言寸器聊述其趣云爾元禄己卯仲春吉曜日神祇管領 卜部朝臣兼敬

社領寄進状
一 正徳二年
紀州名草郡雜賀荘刺田比古神社領事當社者式内所載而專爲府城鎮護ノ社也因茲以名草郡岡村之内拾石ノ地永寄附ノ宜収納者也仍如件
正徳弐年五月 日  吉宗 判

一 享保十四年
刺田比古社領紀州國名草郡田尻村ノ内貳百石事今度寄附ノ 全収納永不可有相違者可抽國家安泰ノ悃祈ノ状如件
享保十四年九月十八日  御朱印
神主

殺生禁状
一 享保六年 
名草郡岡刺田比古神社
境内 東西 南方 三拾一間 
北方 三拾三間半
南北 東方 拾七間半 
西方 拾九間
右之限界停止殺生不可有違犯者也仍
仰如件
享保六辛丑年二月 日   三浦遠江守 判
水野大炊郎 判

一 享保八年 
名草郡岡刺田比古神社南方添地
境内
東表限 南北 十四間四尺
西表限 南北 十四間一尺
南表限 東西 三十間
北表限 東西 十間一尺五寸
右添地限界停止殺生不可有違犯者也
依 仰如件
享保八癸卯年五月 日   三浦遠江守 判
水野大炊郎 判

棟札

当神社に伝わる棟札。

天正十七年の棟札(桑山修理太夫)
紀伊國海郡雜賀荘宇治郷岡村当社國津明神御棟札也
大檀那生國尾劦海東郡桑山修理太夫当國郡職之砌不思議ノ内檀仍当社明神上省成就棟札其砌取持足立好修 仍□ 神主大エ門大工粉川住人
速水八エ門両人    藤原家教奉者省是所也
時天正十七年己丑卯月十四日 願主敬白


延寶六年の棟札
當社明神御棟上札
紀州名草郡雜賀庄岡
國津神社岡廣瀬領産土神斯城之地主且鎮守也
國君源二品嘗崇敬之臨時拝矣今
國君正二品誕于斯城嗣君亦誕於國領
吹上二品自寛永至寛文再興規闢社境建正殿末社拝殿瑞籬内外鳥居神厨齋館無不備且移祠官宅于社傍仝朝夕供奉灑掃莫懈也 今國君崇奉不異先代*年 命有司修繕重葺正殿末社一宇拝殿鳥居等
延寶六年戊牛九月吉日
奉 行 喜多村大之丞源正丘
四宮太郎左エ門尉藤原直道
副奉行 飯田勘右エ門尉 平則明
匠 頭 中村新平 平久幸
神 主 岡本宮内 藤原長俊
*は「玄玄」の字。

元禄十二年の棟札
紀州名草郡雜賀庄岡
刺田比古神社正殿末社拝殿瑞籬鳥居神厨齋館燈舎等 丙子歳四月
當社舊称國津大明神不詳其本名丙子修繕之次□神號始見矣事由詳于卜部兼敬郷勘文右神號之事咨訪考覈至是年而因*今乃椙棟榜者也
元禄十二年己卯九月吉日
奉 行 丹羽弥四郎   源了隆
柴田才右エ門  藤原幸雄
副奉行 山本藤四郎   藤原正堅
小奉行 中村右エ門   平忠久
神 主 岡本宮内    藤原長俊
□は不明。*は「玄玄」の字。「丙子」は元禄九年か。

享保五年の棟札
紀州名草郡雜賀庄岡
刺田比古神社正殿末社拝殿瑞籬鳥居神尉(ママ)
齋館燈舎等國主命修繕之
奉 行 中村太郎兵衛   藤原吉明
堀内庄蔵     橘 正村
享保五年庚子十一月吉日
副奉行 山本四郎左エ門  源 重政
小奉行 中村與右エ門   平 久武
神 主 従五位下岡本周防守藤原朝臣長刻

紀伊国名所図会

 紀伊国名所図会

『紀伊国名所図会』は文化8年(1811)に出版された書物。
紀伊国の当時の名勝地を記した案内で、各地の名所図会のなかでも代表的なものとして知られている。
刺田比古神社は名所の冒頭に紹介されており、当時の隆盛をしのばせる。境内末社の位置は現在と異なる。
当神社横の松生院は別当寺。寛永3年(1626)に初代紀州藩主徳川頼宣(南龍)公が、岡の宮神主を別当職に兼帯して、松生院に居住させたという。寛文3年(1673)には別当職を解かれ、神仏習合から唯一神社となったが、神社傍に新たに神職住居を与えられた。松生院の境内にある鳥居が別当寺の名残をうかがわせる。

 紀伊国名所図会

南紀徳川史

 南紀徳川史

刺田比古神社誌

 刺田比古神社誌

大正5年3月 刺田比古神社社務所刊
大正発行の『和歌山県史』に一部引用されている。

古事記

古事記

国宝 真福寺本古事記(複製版)

万葉集

遠つ人松浦佐用比賣夫恋に領巾振りしより負へる山の名

山の名と言ひ継げとかも佐用比賣がこの山の上に領巾振りけむ

萬代に語り継げとしこの嶽に領巾振りけらし松浦佐用比賣

海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣

行く船を振り留めかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用比賣
(万葉集 巻五より)

『肥前風土記』や『万葉集』には、狭手彦命の悲恋が伝えられている。狭手彦命は高麗出兵の前にとどまった松浦郡鏡の渡(現在の唐津市鏡)で、篠原村の美女オトヒメ(『万葉集』では松浦サヨヒメ)と結婚する。高麗出兵のための別れにさいし、狭手彦命は餞別として鏡をお贈りになる。しかしオトヒメは悲しみに耐えられず、岬の先で狭手彦命の船にむかって手を振り続けた。このときに餞別の鏡が落ちたという。このことから、その岬を袖振の峰、鏡の落ちた地名を鏡と呼ぶようになったという。

大日本史

巻一 神武天皇
 山路險絶、不知所嚮、 天皇夢天照大神誨曰、今遣頭八咫烏住、宜以爲郷導、會頭八咫烏至、天皇大喜、令道臣命師大来目、從頭八咫烏而啓行、遂得達于菟田下縣、八月二日乙未、召菟田魁師兄猾、弟猾、兄猾不至、乃遣道臣命誅之、弟猾大設牛酒、犒王師、天皇班酒肉於軍、乃爲歌、是謂來目歌、天皇親率輕兵巡吉野、土人井光等來屬、九月五日戊辰、天皇登菟田高倉山、瞻望域中、八十梟帥軍國見岳上、置女軍於女坂、男軍於男坂、熾炭於墨坂、又兄磯城兵布滿磐余邑、皆己據守要害、道路絶塞、天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有神誨、時會弟猾上言、其言與夢協、天皇大喜、命椎根津彦、弟猾、取天香山土、即造八十平瓮天抉嚴瓮、祭神祇於丹生川上、祝曰、吾當用八十平瓮無水造飴、飴成則不假鋒刄、坐平天下、飴果成、又祝曰吾當枕嚴瓮於丹生川、若群魚醉而浮、則吾能定國、及沈瓮、魚皆浮出、天皇大喜、乃枝丹生川上眞坂樹、以祭諸神、祭神用嚴瓮、自此始、又親顯齋于高皇産霊尊、命道臣命爲齋主、授嚴媛號、十月癸巳朔、天皇嘗嚴瓮之種、勒兵而出、遂破八十梟帥於國見岳斬之、迺命道臣命、誘其餘薫殲之、天皇曰、戰勝而無驕、良將之行也、今賊魁既滅、(略)
元年辛酉、春正月庚辰朔、即天皇位於橿原宮、時年五十二、年據水鏡、暦代皇紀、及本書崩年一百二十七文、號曰神日本磐余彦火火出見天皇、立正妃爲皇后、建神籬祭八神、鎮護國家、天冨命率諸齋部、捧天璽鏡劔、奉安正殿、天種子命奏天神壽詞、可美眞手命内物部、執矛楯、嚴儀衛、道臣命率來目部、護衛宮門、群臣朝賀、命天種子命、天富命、共掌祭祀、建神籬以下、舊事紀、古語拾遺、○舊事紀、年中行事並曰、十一月十五日庚寅、可美眞手命爲天皇皇后天璽瑞寶、以鎭御魂、祈壽祚鎭魂祭始于此二年壬戌、春二月二日乙巳、定功行賞、○按舊事紀、是日可美眞手命、天日方奇日方命、爲申食國政大夫、本書所不載、頗可疑、姑附備考、下傚此賜道臣命宅地、今居築坂邑、

巻七 欽明天皇              
二十三年
八月、遣大將軍大伴狹手彦、率兵數萬伐高麗、大破之、獲婦女寶貨而歸、呉人智*齋儒釋方書明堂圖等百六十四巻、佛像樂器、相随倶来、云云
『徳川家蔵版 大日本史』[昭和三年七月十一日、義公生誕三百年記念會]
*は「耳」へんに「忽」

巻二六三 神祇二〇(神社一五)
刺田比古神社、
○古事記田作國、國田字形相類、必有一誤、未知孰是、社今在和歌山南岡山下、稱岡明神、又國主明神、蓋祀刺國大神、大神女刺國若比賣嫁天葺根命、生大已貴命、大已貴爲兄弟所虐也、若比賣大已貴憂之、使其往依大屋彦命、避難木國、蓋以外家亦在本國也、古事記
『大日本史 九 志一』[昭和四年四月二十日、大日本雄辯会]


刺田比古神社
〒 640-8139 和歌山県和歌山市片岡町2丁目9

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