産土神と拾い親
徳川吉宗公(有徳公)は貞享元年(1684年)10月24日、紀州藩2代藩主徳川光貞の第4男として、和歌山に生まれた。しかし誕生と同時に、和歌山城南西隅にある扇の芝(和歌山城 追廻門付近)に捨てられた。そのさい吉宗公の産土神である刺田比古神社の神主岡本周防守長諄が拾い親となった。
長諄は箕と箒で吉宗公を拾い、家老加納五郎左衛門にあずけたという。これらの行為は厄払いの行事であり、本当に捨て子にされたわけではない。
厄年に生まれた子供は、捨て子にすれば丈夫に育つという風習があったためである。光貞公は、自身の産土神でもある岡の宮神主に子供を拾わせることで、神からの贈り物としたのである。
「42歳の2つ子」
当時、「42歳の2つ子」という言葉があった。父親の厄年42歳のとき2つの子がいると、その子は親を食い殺すという迷信である。したがって41歳のときの子は忌み嫌われ、一度捨てて拾い子とする厄除けが行われたという。『大岡政談』には光貞公が41歳であったため、捨て子としたのだとしている。ところが、吉宗公は光貞公59歳のときに生まれており、「42歳の2つ子」にはあたらない。
厄年の子
厄年の子とされたのは「42歳の2つ子」だけではない。母親が厄年のときに生まれる子は、母親の厄を持って生まれてくると考えられていたのである。女性の厄年の子を捨て子にする風習は現在も西日本などで確認されている。吉宗公の母おゆりの方(のち浄円院。紀州藩士巨勢六左衛門利清の娘)厄年だったと考えるべきであろう。
吉宗公の開運
吉宗公は、5歳まで加納家で養育され、のち和歌山城に上るが、部屋住みの庶子(後継以外の子)として扱われていた。しかし宝永2年(1703年)に情況は一変する。5月、3代藩主綱教公(光貞長男)が病死する。翌月、3男頼職公(2男次郎吉は夭折)が4代藩主となるが、9月には頼職も死去する。そうして本来なら家督を継ぐことのない4男の吉宗が、5代藩主となったのである。吉宗公は藩主就任を産土神の御神徳と感謝され、神田を寄附されている。吉宗公は優れた政治力を発揮され、よき藩主となられたが、開運はそれだけにとどまらなかった。
正徳6年(1716年)4月、7代将軍家継公が後継ぎのないまま夭逝され、御三家の中から吉宗公が将軍職に就くこととなったのである。吉宗公は将軍就任を感謝され、田尻村(現和歌山市田尻)に200石の地を寄附された。また黄金装飾の太刀(国宝)、愛馬を神馬として献上された。また刺田比古神社を国家安泰の祈願社と定められ、毎年国家安泰の祈願を一万度行うことを命じられた。宮司岡本長刻からは3年に1度(『南紀徳川史』では5年に1度)江戸に上東し、将軍に拝謁する習いとなった。以後幕末まで後継替の挨拶におとずれている。