刺田比古の由来

刺田比古とは

道臣命を祀る神社には伴林神社(藤井寺市)、林神社(富山県砺市林)などがあるが、刺田比古神社は全国でも一社しかみられない。しかも『延喜式』神名帳にその名がありながら、猿田彦命の間違いや刺国彦命の間違いとされているのは奇妙に思われる。

では刺田比古とは何なのか。

諸説

もっとも有名なものとしては、本居宣長の『古事記伝』がある。

宣長は「刺田」を「刺国」の誤りだとして大国主命の父にあたる刺国彦命を祀る神社と捉えている。(『紀伊国名所図会』や『紀伊続風土記』はこの説に従っている。)

この解釈は、紀伊国に大国主命を祀る神社が多いことによる。しかしながら、神名を間違えて表記するというのは少し不自然なように思われる。

また『延喜式』神名帳のどの伝本をみても異同がなく、『紀伊国神名帳』(成立年は不明)にも「刺田比古神」とあり、他の文書にも別表記がないのも奇妙に思われる。『紀伊国名所図会』でもその点を指摘している。

『和歌山県史』(大正3年)引用の刺田比古神社史によると、「刺田比古」は「サデヒコ」と読むべきだとしている。

祭神の佐弖比古命の表記違いの神名が、次第に本来の読みを失ったことによるのではないかと推測している。(『明治神社誌料』なども、この説を踏襲したものと考えられる。)

確かに佐弖比古命はさまざまな表記がなされ、「デ」の音が「ダ」の音に変化するのは自然である。

しかし、「刺」の字を用いた表記は見られない。しかも『延喜式』神名帳の訓は、「サスタ」あるいは「サシタ」の異同のみで、「サデ」とするものは見られな
い。

従って「刺田比古」は刺国彦命や佐氏比古命とは別の神名と考えるべきである。

祖先神 刺田比古命

では「刺田比古」とは何か。唯一伝えられている資料がある。鎌田純一編『甲斐国一之宮 浅間神社誌』(昭和54年3月10日、浅間神社)に資料として掲載されている「古屋家家譜」である。

古屋家は浅間神社の社家で、大伴氏の流れを持つという。この「古屋家家譜」は『系図纂要』や『群書類従』に見られる大伴系図とは違う伝承を持っている。

「古屋家家譜」によると道臣命の父が刺田比古命となっている。

しかも道臣命は「生紀伊国名草郡片岡之地」とあり、片岡の里に生まれたと伝えている。

このことを考えると、道臣命、あるいは佐弖比古命以前の祖先神として刺田比古命を祀ったと考えるべきであろう。

神社名の変遷

当社は南北朝の騒乱のさいに荒廃し、氏子崇敬者により再興されたという。

ところが社殿や神宝だけでなく、祭神さえもわからず、岡の地にある氏神として岡の宮と呼ばれたり、「国を守る神」の意味をこめた「国主神社」と表記し「クズ神社」と呼ばれることとなった。このことから大国主命を祭神とする伝承がうまれたと考えられる。『紀州旧跡志』や『紀州名勝志』などを見ると、大貴己命

(大国主命)を合祀したとあり、ある時代に大国主命を祭神にしていたのは疑いないようである。とはいえ、いつ大国主命を合祀したのか不明である。
また「クズ」の音は、「九頭大明神」を祀るという誤解をまねきました。

「九頭」は「クヅ」と読み、「ズ」の音が「ヅ」に変化することは考えにくい。『紀伊国名所図会』には九頭神社を移したともあり、それを祭神と混同したようである。

民間が再興した神社だけに、さまざまな民間信仰の場となっていたようである。

『紀伊国名所図会』の伝える九頭神社や、宮の壇から移された八幡社などのように、大小の末社を祀る結果となった。現在境内に末社が多く見られるのもその名残と考えられよう。

その後、桑山重晴が社殿を修復し、徳川頼宣が更に修復を加えました。元禄9年、社殿修復のさい、境内から「紀州名草郡刺田比古神」と書かれた箱が発見された。

古老には刺田比古神社の宝物箱の伝承があったが、所在は伝えられていなかった。その箱によって、この神社が刺田比古神社とわかり、祭神を大伴道臣命・佐弖比古命に直したという。

しかしながら、神社名は国主神社、岡の宮の名称が用いられていたようだ。吉宗公が元禄12年に本来の刺田比古神社に戻した。